田辺地区|諏訪盆地の集落と地盤

<絵図と地形>

 宮川中流域の左岸自然堤防上に立地した集落である。上流部を上金子・神宮寺に、下流部を文出に接する。南から西は、盆地西壁山体の麓を流下する恵川を隔て大熊および真志野に接する。

 宮川が、上金子で2度小さく曲流し中金子境手前で大きく東へ蛇行する。曲流の内側(左岸)に大きな自然堤防を発達させ、これが大曲りの畑地※1となっている。中金子下部から西に大きく蛇行した宮川は、その内側に金子城址の自然堤防を形成した。この蛇行部の外側は、南西方向に大きくせり出し、西山山体から流出する小田井沢の谷口から伸びる扇状地に接する。この自然堤防と扇状地が接する狭隘部より上流側に大きな後背低地が生まれ、田部集落成立に関わる藤島社※2が置かれる。この後背低地は、上社前面に広がっていた湖の一部が、宮川の河流およびそれが形成した自然堤防と山麓線およびそこから流出する扇状地により囲い込まれた低湿な区域であり、古代~中世にかけて水稲耕作地(田地)開拓の対象となった。

 藤島は、上社成立の時期に宮川の自然堤防の一部ないしその時代に生じた三角洲の様な状態で存在した地形面と推定される。水稲耕作を担う田部の人々が、上社の目前に出現した藤島の地に耕作を開始したと考えることが出来る。後背低地の湿地帯を徐々に開拓し、耕地を拡大していったと思われる。

 絵図には、下流の田部集落と藤島明神を結ぶ道路を描き田部うぶすなと記されている。

 田辺区誌には、藤島を開拓した後現在の田部集落に生産の場を移し、さらに下流の湖中に生じた四ツ家・えび島(現在の文出集落の上流部に相当する)に進出したと記されている。

 宮川の下流部は西に大きく曲流し文出から小川を経て現在の湖畔ヨシ崎に達し湖中にデルタを残した。この時、宮川が最も大きく南西に蛇行した部位で西山山体の有賀峠から流出する中沢川の扇状地末端とこの自然堤防が交わり、その狭隘部の上流側に鴨池・武井田の巨大な後背低地を生じている※3。この鴨池・武井田の低地が戦国・江戸年間から明治・大正にかけ埋め立てと排水等の農地整備により水田化されている。

 

<古絵図>

 享保年間に描かれた古絵図には、宮川左岸の広大な地域に広がる田地・畑とこれを涵す用水及び農道が記される。また、西山山体主峯を成す守屋山の北側山地斜面に農業生産に関わる広大な山地原野を保有管理していることを示す。

 宮川中流域左岸地域に形成された二つの後背低地を生産の場とし、守屋山麓に原野を有す有力な農村集落であることが分る。

 宮川の自然堤防上を用水※4が貫流し文出集落手前で宮川に還流する※5。この用水は、集落の上・下二つの後背低地を開拓した水田を涵す。集落が形成された微高地には、上流から観音堂・永久寺・御社宮寺社・地蔵堂・十王堂・葬礼場・薬師・八龍社が置かれ、縄手道がこれを連ねる。周囲の村々へは、藤島社を経て上社境内「田辺門」に通じる大縄手道、大熊を結ぶ山道、鎮守を経て文出を結ぶ大畦が設けられている。

図右側の六尺川とえびす島の先一帯には、低湿地が広く残されていたものと推定される。鴨池の鎮守社には河童命が守り神として祀られ、自然堤防の下流部には八竜通りと添え書きされる水神が、後背低地の水際に土地神を祀るえびすの宮が置かれている。

宮川の長大な自然堤防とこれに連なる二つの後背低地と守屋山北麓に広がる広大な原野山林から成る集落である。

 

<地質>

 集落中央の宮川橋と集落内の鉄骨3Fマンションの地質調査ボーリングデータである。

 〔No.1地点〕…宮川橋
 自然堤防上に盛土が3.45m施され、GL-10.50mまで約7m間を砂質土が占める。

 盛土層は、昭和初頭の河川改修時のものと思われる。

 GL-3.45~5.70mの砂質土は、浮石を混入、小礫を点在することから主河川が運搬する河床砂礫と思われる。

 GL-5.70~10.50m間の砂質土は、浮石を混入する中砂~粗砂と腐植土が互層を成している。砂質土の内訳は、腐植土混り砂、腐植土混り砂質シルト、腐植土混りシルト質砂であり、腐植土から成る在来地盤に河川が運搬・堆積した砂が混じり合った土層である。これらの土層により自然堤防が形成されていると考えられる。

 GL-10.50~15.80m間の腐植土およびGL-21.90mまでの腐植土混り砂質シルトは、在来する後背低地を形成する低湿性土層であり、ここに自然堤防から溢れた砂が混入している。

 GL-21.90m以深に現れる砂礫層は、年代をやや遡った時代に堆積した洪積砂礫層である。腐植土を含有する砂を主体とし小礫を点在させる密な土層となっている。

 GL-25.80~28.70m間の腐植土は、少量の小礫と砂および木片を混入し硬く締っている。低湿性植物が繫茂する中に木片や微量の砂礫が混入し、全体として圧密が進行し硬く締った状態に達したものと考えられる。

 GL-28.70m以深の腐植土混り砂は、さらに下方に連続し安定した土層帯を形成しているものと思われる。

 

 〔No.2地点〕
 集落内の自然堤防に沿う用水路からやや後背低地側に入った地点である。

 辺り一帯は水田地帯でありGL-1.70mまで粘性土と礫混り土砂により敷地造成がされている。後背低地に属す地域に位置する。地下水位は高くGL-0.65mと記録されている。(調査5月19日)

 GL-10.25mまでN値3~4を含む軟弱な腐植土がゆるい砂を挟在する。GL-12.90mまでの腐植土は硬度を高め、N=4~8をカウントする。腐植土層は後背低地に自生した低湿性植物が重なり、繊維質を主体とし一部分解した土層である。

 GL-12.90~14.60m間に浮石を混入するやや優勢な砂層を挟む。以深30mまでの土層は在来する腐植土ないしシルト層に砂が混入し、砂層を挟在する。砂は細砂を主体とし、一部に河流が班勢なことを示す浮石を混入するが河流本川が運搬する礫径の大きな河床砂礫(砂礫)は堆積していない。